ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

ハルとの約束

 

先日、ハルがとうとう二歳の誕生日を迎えました。

 

思い返せば二年前、予定日を過ぎても

一向に生まれる気配のなかったハル。

このままずっとお腹にいるつもりかしらと思う程の

長い長い十日間の後、どうにか無事に生まれたハルは、

目も鼻も口も、手足も指も、何もかもがちいさくて、

そのやわらかなからだを抱いてもなお、

私はまだ本当のことでないような、

ふわふわと夢でも見ているような心持ちでいました。

 

出産直後、ハルを間近にして最初に思ったのは、

「本当に人のかたちをしているんだなあ。」ということです。

それまで、白黒のエコー写真でしか胎内の様子を見たことのなかった私は、

そのときになってようやっと、人の親になったのだと実感しました。

 

そうして始まったハルとの毎日は、極度の寝不足と、

抱っこに授乳、オムツ替え、寝かしつけや離乳食作りといった、

慣れないこと、わからないことだらけで、

想像を遥かに上回る大変さでした。

 

ハルがとにかく寝ないため、

私は途切れ途切れの睡眠時間を足しても

五時間に満たないような生活が一年近く続き、

それはもうほとんど苦行のような有り様でした。

また、食べる量も驚く程少ないハルは、

ほんの数口食べるのにも二時間以上はかかり、

食事の度、作っては捨てるようなことの繰り返しだったのです。

 

それでも、先に出産した知人から

「産後も二週間経つと、もう顔立ちが違って寂しい。」

という話を聴いていたこともあって、

私はハルの成長を見逃すまいと懸命でした。

何もかも、今だけのこと、

そう考えてみることは、日々を大切に過ごすうえで

とても良い役割を果たしてくれるように感じます。

 

実際に、大人と並んでいるとまだ随分とちいさなハルですが、

生まれた頃の写真を見るとまるで様子が違っています。

いつの間にこんなに成長したのだろうと、

すぐにまた嬉し寂しい心持ちになったりもするのです。

 

 

 

 

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私には、ひとつ、心のなかで決めたハルとの約束があります。

それはハルに、“生きることは幸せだと身を以て示す”というものです。

 

いつだって優しく誠実で在りたいけれど、

実のところ、それはとても難しいことです。

自分の力を信じたいけれど、思う通りにできないことや、

無力感から自分をいやになるときのあることも知っています。

ハルにも、そんなふうに心の塞ぐことがきっとある、

それでも、生きていることを幸せと感じられるように、

まずは私自身が、親として、人として、

自分の人生を心豊かに生きる姿を見せたいと思うのです。

 

生きることを辛いものとしてしまったら、

ではなぜ自分を生んだのかという疑問にも繋がりかねないような気がします。

苦しいことも、悲しいこともあるけれど、それでも、世界は美しいと伝えたい。

そこで一緒に生きていきたいと思えばこそ生んだのだと感じてもらいたい。

突き詰めれば、それが親として果たすべき役割の

ほとんどすべてのようにすら思われるのです。

 

 

とは言え、私自身、記憶があるのは

せいぜい四歳か五歳くらいからですので、

自分で認識できる時間を人生と呼ぶならば、ハルはまだ、

人生が始まるまでにも、あと二年はあることになります。

今こうして二人で世界を見て、聴いて、感じていることの大半を

ハルは忘れてしまうのかもわかりません。

それでも、確かに昨日が今日をつくり、

今日が明日をつくるのであれば、その続いていく先で、

ハルの心を満たすものの一片くらいにはなれるはずと信じています。

 

 

“生まれてきてくれて、ありがとう。”

そんなふうに思いながら、今日もまた愉快に過ごす、

イヤイヤ期真っ盛りな二歳のハルと、

少しの余裕を持って見守れるようになった私です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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選り好み

 

ハルは、おかずの中から

特定の具材だけを選り好みして食べることがあります。

 

好き嫌い、というのとも少し違って、

ただお気に入りのものを食べられれば

それで満足といった様子です。

 

おにぎりの海苔だけ、

オムライスのたまごだけ、

ピザトーストのチーズだけ、

レーズンパンのレーズンだけ、

あんパンのあんこだけ、等々。

 

ごはんの上からゴマ粒だけを拾おうとしていたときには、

そのあんまり熱心な表情に、なにやらもうほとんど感心してしまいました。

いえ、もちろん、ごはんもしっかり食べてもらいたいのですが…。

 

 

なんとも、困ったさんのハルです。

 

 

 

 

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ハルの成長

 

ハルは、もう特に転んだときのことを

思い出すでもなく元気にしていますが、

時折私の足を指差しては様子を伺うような素振りを見せます。

どうも、いつもとは勝手が違うらしいということは、

ハルなりに薄々感じるものがあるようです。

 

「いたいのいたいのとんでけってしてくれる?」と言うと、

得意気に「ポーン」とやってくれるので、

それがあんまり可愛らしくて、つい度々お願いしてしまいます。

 

本当のところを言えば、骨折した箇所に負担のない限り、

痛みは感じず、普段はひたすら不自由なだけなのですが、

用心のため、ハルには少し大げさに伝えてるようにしています。

気に掛けてくれてはいても、やはりふとした瞬間には

意識にのぼらないこともあるので、

「お母さんの左足さん、いたいいたいなのよ。」と

説明する都合上、常に痛いことになっているのです。

 

そのかいもあってか、ここのところ、ハルはとても協力的です。

これまでいやがっていたチャイルドシートにすんなり座ってくれたりなど、

もしや私の状態をおもんばかってのことかと驚きもします。

 

思えば最近になって、ハルは誰かの感情や場の雰囲気などを、

随分しっかりと察するようになりました。

 

一歳を過ぎたばかりの頃は、公園などで泣いている子がいても、

にこにこと笑いながら近づいていたハル。

あまりに状況にそぐわない反応を見せるので、

こちらが慌ててしまう程でした。

 

それが、絵本のこぐまちゃんの泣いている様子をいやがったのに始まり、

そのうちに色々の絵本や子ども番組で、誰かが泣いていたり、怒っていたり、

あるいはけんかをしていたりする場面をいやがるようになったのです。

お気に入りの絵本は内容を覚えているので、いやな頁を開こうとしないハル、

テレビでは「ピッピ!」と即座に場面を変えるよう指示を出します。

 

いやがる、と言うよりはこわがっているふうでもあり、

大丈夫なのよと言い聞かせもするのですが、なかなか納得しません。

 

大人の感覚では少々過敏にも思えますし、

安心させてあげたいという気持ちにもなるのですが、

本人がいやだと言うものを無理矢理観させるのも良くないような気もします。

私自身、子どもの頃は、不安で仕方がないときに「大丈夫だから」と

大人の笑っている様子が、まるで突き放されたように感じられたものです。

もちろんこんなとき、大人に悪気はないのですが・・・。

 

ですので、せめてしっかりと抱きしめたりなど、

ハルの心持ちのできるだけ落ち着いた状態で、

一寸ずつ慣れるようにしていけたらとは考えています。

 

いずれにしても、こうして周囲の心と向き合いながら、

関係を築くことでハルの世界が広がっていくのかと思うと、

また新たな成長を目の当たりにして感慨もひとしおです。

 

 

そんな成長著しいハルですが、近頃、わざと聴こえていない、

あるいは気づいていないふりをするようなこともあります。

それは、自分にとって都合の悪い話だと思っていそうなときや、

なにがしかテレビ番組を観ているときなどです。

本当に夢中になっているときと比べて、目線の外し方や顔の背け方が

明らかに不自然なので、きっとこれはわざとでないかと思うのです。

これもまた、その場の状況に見事合わせた対応ということなのでしょうか。

 

あまり感心できたことではないため、

さすがに注意が必要かと声をかけもするのですが、

その様子がどうにも可愛らしくて、いつも思わず笑ってしまいそうになる私です。

 

 

 

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花森安治さんと読む『暮らしの手帖』

 

おすすめの人、花森安治さんの特集も今回で最後です。

 

さて、『暮しの手帖』には、創刊以来

大切に引き継がれている花森さんの言葉が掲載されています。

表紙の裏面に綴られた、“暮しの手帖宣言”とも呼ばれる一文です。

 

「これは あなたの手帖です

いろいろのことが ここには書きつけてある

この中の どれか 一つ二つは

すぐ今日 あなたの暮しに役立ち

せめて どれか もう一つ二つは

すぐには役に立たないように見えても

やがて こころの底ふかく沈んで

いつか あなたの暮し方を変えてしまう

そんなふうな

これは あなたの暮しの手帖です」

 

暮しの手帖』という言葉の持つ馴染みよさは、

本当に、これがもっとも人々の身近にあることを願って

つくられているものであるからかも知れません。

いつでも、すぐ傍にいて、暮しに寄り添うもの。

それはちょうど、大切なことのすべてが書きつけてある手帖のようです。

 

私たちの一生のうち、ほとんどは何ということもないふうな

日常で出来上がっているわけですから、それを愉しまない手はありません。

この“暮しの手帖宣言”に始まり、雑誌『暮しの手帖』は、

その内容のどれもが、私たちのそうした

ささやかな暮しのためにこそ、書かれているのです。

 

せっかくですので、少し内容をご紹介すると、

まず最初の特集は『さながら美しい音楽のように』と

題して書かれた、生き生きとした新しい家事について。

これは、服を選ぶのと同じに、台所仕事の道具を色で統一することの提案です。

 

アメリカの暮しの合い言葉だという「MORE TASTE THAN MONEY」が、

「ベツニ オ金ヲカケナクテモ センスガアレバ タノシク暮ラスコトガデキル」

との添え書きとともに登場します。台所で使う道具ひとつとっても

実に多くの色柄をしたものが溢れる昨今ですが、

まさに音楽のひびくように調和を図ることで、

今よりもう一寸美しく、心地好く暮せるはずですよ、というお話です。

「多少お説教めいてはいてもちょっとしゃれています」と、

他所の文化や価値観も、良いものは良いと受け入れられる

心持ちが実に清々しい印象を与えます。

 

そして、つくる過程まで写真つきで教えてくださるお料理の頁。

トリの安いときに重宝だというデミドフふう、

焼き魚になるものならなんでもというイタリーふう魚のあみ焼き、

他にも鮭とゆで玉子のポテトサラダやヴァレンシアふう干だらごはん。

さらには夏の中国料理二種やぜんまいの煮付け、

ごまどうふ、きゅうりもみ等々。

 

いずれも、けして難しいことはなく、できるだけ簡単に、

見栄えよく、美味しく食べられるよう工夫されています。

身近の食材で、コツなど要らないようにと考えられたおかずの作り方は、

家族やお客様への心遣いの感じられる、それでいて肩肘の張らない、

毎日の暮しのなかのおそうざいといったふうです。

 

 

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それから、『すてきなあなたに』という題のエッセイ。

花森さんとともに『暮しの手帖』を創刊した大橋鎮子(おおはししずこ)さん

という方が担当されたものですが、この方はNHKの朝の連続テレビ小説

『ととねえちゃん』でヒロインのモデルとなっていらっしゃいました。

 

「暑いかと思えば、急にセータがほしい気温になるさわぎがたびたびで、

からだがへんになりませんか、お気をつけなさいませ。」とか、

「家族みんなと食卓につこうというとき、どなたかが、おみえになったとき、

そんなとき、主婦が、かけていたエプロンを、そっとはずして、たたむ、

あのなんでもないようなしぐさの中に、一家をあずかる人のけじめがみえて、

いっそ美しくみえるものです。」という具合に始まる読み物、

なんだかもう素敵な予感がしませんか。

 

他にも、コンタクトレンズの危うさについて警鐘を鳴らしたり、

胃ガンの最新情報をこまかに検証してみたり、

まる洗いできると銘打たれたスーツを購入して散々な思いをしたことや、

家族の暮しの悲喜こもごも、棚の吊り方、様々の寄稿から、

なんとカヌーの作り方まで、暮しにまつわる話が所狭しと、

それでいて行儀の良く並んでいます。

 

 

なかなか自分の好きにできない毎日の中で、少しでも丁寧に

暮したいという気持ちから読み返してみた『暮しの手帖』。

そこに見る、市井の人々の、つつましくも幸福な暮しぶりには、

自分へと繋がる連綿とした営みを感じるような喜びがあります。

今回、花森さんご自身のお考えや、その背景に触れ、

これまで以上に愛読するようになりました。

 

実を言えば、花森安治さんという方について、

その特徴的なスカートにおかっぱ頭という装いから

女性かと思い違いをする程に、以前はほとんど何も知りませんでした。

そうした格好は、女性の気持ちを知るためとも言われますが、

ご本人はなにも仰らなかったそうです。

色々に思いはあったのでしょうけれども、そんなこととは関係なしに、

着たいと思う服を着て、したいと思う髪の型を愉しめる、

そんな世の中を望んでいらしたのではないかというような、

私には、今はどうもそんなふうな気がしています。

 

 

誰もが自分の、自分たちの暮しを大切にして、

そうして皆が当たり前のように過ごしている日常を何より尊いものと思えるように。

そういうことのための雑誌を創りたいと励まれた花森さん。

私の尊敬する、おすすめの人です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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花森安治さんと愉しむおしゃれのこと

 

1946年夏に出版された『スタイルブック』の巻頭に、

花森さんの言葉が以下のように掲載されています。

 

「まじめに自分の暮しを考えてみる人なら、誰だって、

もう少し愉しく、もう少し美しく暮したいと思うに違いありません。

より良いもの、より美しいものを求めるための切ないほどの工夫、

それを私たちは、正しい意味の、おしゃれだと言いたいのです。」

 

戦後の、着るものはおろか食べるものにさえ不自由するような時代、

新しい布地を買うことはできなくとも、多くの人が持っている昔からの着物を

活用できればと考え創刊されたのが、この『スタイルブック』、

暮しの手帖』の前身とも言える雑誌です。

 

そこで紹介されたのが、花森さんが長年考えていたという

直線建ちによる洋裁の服でした。新聞などに広告を出すことで

宣伝をした、この『スタイルブック』は、全十八頁という薄さながら

とても大きな反響を呼んだそうです。

 

「たとへ一枚の新しい生地が無くても、

 あなたは、もつともつと美しくなれる…」

 

ちいさな広告の、このわずかの言葉に、

当時の女性たちはどれ程胸の踊る思いがしたことでしょう。

戦争という、今の日常からはとても想像の及ばない苦難を経験しながらも、

やはり、より良い暮しを、そのための装いを、愉しみたいと考えるのですから、

実におしゃれとは人の心の持ち様そのものであるように感じられます。

 

さて、我が家の『暮しの手帖』には、

『働くひとのおしゃれ』という特集があります。

これは、アメリカのサンキスト社の消費者サービス主任である

バーバラ・ロビンソンというご夫人のお話です。

夫人がお勤めに出ていらっしゃるので、働くひとという表現が

使われているようですが、内容はどなたにでもためになるような、

装うことそのものについて書かれています。 

 

「ねだんは少しぐらい高くても、生地のよい、

しっかりしたものをえらぶようにしています。

そのほうが型もくずれないし、シワにもならず、

手入れが簡単で、いつもきちんとしていられるからです。

そこへゆくと、安い服は、手入れがたいへんで、

しかも長もちしないから、かえって損ですね。

きちんとした服を着ていることは、人によい感じを、

あたえるだけでなく、自分自身も気持がしゃっきりとし、

自然に仕事や、動作にも自信がもてるようにおもいます。」

 

そうして、服や靴のえらび方から、

お手入れのことなどを話していらっしゃいます。

 

ハルと過ごすようになってからというもの、

もっぱら汚れてもかまわないような服ばかりを着ている私ですが、

おしゃれを愉しむことへの欲求が時折むくむくと湧いてくるときがあります。

今はめったにできませんが、それでも、お気に入りの服に袖を通し、

馴染みの革靴を履いて、大切にしている腕時計をつければ、

もう心持ちまで整うように感じられるのですから不思議です。

 

そして、全体いかほどのものを少しぐらい高いねだんとするかはさておき、

確かに、おしゃれを愉しむために、必ずしもたくさんの服は必要ないように思います。

一年にせいぜい三着買うかどうかというふうであれば、それ程お金もかけずに済みます。

子どもがいると、そう自分のことに出費もしていられませんから、

新たに買い足すことなく毎日の装いを愉しめるのであれば、

幾つかの服を大切に着ることの方が私には向いているようです。

 

どうせ汚れるのだから、誰も見ていないのだから、

そんなことを考えるとおしゃれなどどうでもいいような

心持ちにもなりそうですが、戦後随分貧乏をしたと言う祖母が、

いつも身だしなみを綺麗に整えていることをふと思い出し、

やはりこんなときでも少しくらいは気を配っていたいと考えたりもします。 

 

「どんなに、みじめな気持でいるときでも

つつましい おしゃれ心をうしなわないでいよう

かなしい明け暮れを過ごしているときこそ

きよらかな おしゃれ心に灯りを点けよう」

(出典 『スタイルブック』巻頭)

 

何もかもを失ったような辛く苦しい時代、

せめて心持ちだけは明るく、美しくと願い、

切ない程の工夫を愉しもうとした人々の姿は、

それだけでとてもおしゃれであるように感じられます。

 

 

おしゃれを愉しむというのは、触れる人目への礼節という役割も含めて、

自分自身の心が美しくあるよう願うことなのかも知れません。

 

ええ本当に、花森さんの仰るよう、ささやかでもできることを大切に

毎日を過ごせたら、どれだけ素敵でしょう。 

本当は面倒くさがりの私ですが、一寸は自分に自信を持って、

そうしてハルの憧れの女性でありたいとも思う今日この頃なのです。

 

 

 

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花森安治さんと考えるもののけじめ

 

一貫した姿勢で、社会への問題提起を続けた花森安治さん。

歯に衣着せぬ言葉はなかなかに手厳しいものですが、

その根底には確固たる信念が感じられます。

 

夫の買ってきた第2世紀第1号の『暮しの手帖』で、

『ものの けじめ』と題して掲載された花森さんの言葉に、

その一端がかいま見られるような思いがします。

 

「戦争に敗けて、これまでのことはなんでもまちがっていた、というふうになった。

ものの けじめなんぞは、いらざることであるというふうになった。(中略)

しかしもう二十年あまりたっている。そろそろ、ものの けじめというものを

新しくつくりあげていくときがきている。というよりこのへんで、

ものの けじめをはっきりしなければ、この国も、この国に住んでいるわれわれも、

われわれの暮しも、だめになってしまいそうな気がするのである。」

 

朝起きてから、ごはんの前に家の内やまわりを掃除しなくなったこと。

ねまきのまま顔を洗い、食卓につくということ。

炊きあがったごはんをおひつにうつさず食べるということ。

ものの けじめを、いわば生きていくための暮しのルールのようなものだとして、

それがなくなってきているのではないかと仰っているのです。

 

さらには、日々の暮しに始まり、家の外、つまりは勤めに出た先などでも、

ものの けじめがないがしろにされることによって、暮しをささえるような

様々な商品を作っている人たちまでが、まるで自分本位になってしまうことの

恐ろしさを危惧していらした花森さん。

そうした状況に、もはや黙っておれないという思いの体現こそが、

あの噂に名高い商品テストの数々であったのかもわかりません。

有名な事例に、以下のようなものがあります。

 

・トースターの性能を試すために、食パンを4万3千88枚焼く。

・数百世帯もの家庭から生活ゴミを集めて掃除機に吸わせる。

・コンセントを5千回抜き差しする。

・ベビーカーに赤ちゃんと同じ重さの砂袋を置き、100kmを押して歩く。

・火事の際の燃え広がり方や対処法を調べるため家を一軒燃やす。

 

 

いずれも、にわかに信じがたい内容です。

全体どれだけの時間と労力と、気力とを要することでしょう。

けれども、さらに驚くべきことに、これはほんの一例なのです。

 

 

 

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そんななか、偶然の出会いから

我が家の一員となった『暮しの手帖』の特集は、

「おすすめできるのは一つもない」と、

ぴしゃりと言い放たれた『全自動洗濯機のテスト報告』です。

 

洗いムラができる、脱水中に蓋を開けても止まらない、

ホースが傷んで変色する、サビが出る等々、様々な観点から検証したうえで、

筆の重そうに、しかしながら辛辣に結果を評していらっしゃいます。

 

6種類の洗濯機でハンカチを1千回ずつ洗ってみたり、

注水弁と排水弁を各6千回ずつ開閉してみたりと、その念の入り様は相当なものです。

まだ物が少なく高価だった時代、買い物、特にいわゆる家電製品を購入することは、

今よりずっと大変なことだったのでしょう。であればこそ、ほとんど不完全のような

商品を堂々売り出すことへの憤りを禁じ得なかったのかも知れません。

その熱意には、もはや畏敬の念さえ抱くようです。

 

そのうえで花森さんは、主婦がなまけたいばかりに

汚れの残るような服を着せられたのではこまるとも仰っています。

今でこそ、いわゆる全自動の洗濯機というものは家庭の必需品となっていますが、

家事を疎ましく思う気持ちに応えるようつくられた製品だと考えると、

なにやら耳が痛いお話です。

 

結局のところ、家族の身につけるものを

綺麗にしたいというような思いが疎かになることもまた、

暮しのなかのものの けじめが失われていることと言えるのかもわかりません。

昨今の家電製品の恩恵を受けている身としては、その素晴らしい性能と、

改良のため少なからず影響を及ぼしたと思われる商品テストに感謝しきりです。

 

 

最後にもうひとつ、花森さんの言葉をご紹介したいと思います。

「ものの けじめをはっきりさせる、ということは、

ときには自分には不利なことがある。いやなことがある。

しかし、一から百までなにからなにまで、全部自分のつごうのいいようにしか

考えられないとしたら、これはもう、一つの社会をつくりあげていくわけにはいかない。

(中略)ものの けじめを、はっきりさせようではないか。

それが必要だとしたら、それをするのは、ぼくたち大人の責任である。」

 

自分にとって好いか否かではなく、

それがいかに在るべきかという視点で、物事を捉えること。

相手を尊重する気持ちも必要ですし、不本意な場合もあります。

けれども、ことに子どもは否が応にも大人のつくる環境のなかで育つわけですから、

よりよい社会であるように、やはりできるだけのことをしたいと思うのです。

 

 

ものの けじめをつけるということは、

すなわち誠実に生きることであるのかも知れない。

そんなふうにも考えさせてくださる、花森さんです。

 

 

  

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花森安治さんと見つめる暮しのこと

 

あるとき、仕事終わりの夫が、

一冊の古雑誌を手に帰ってきたことがありました。

 

その頃住んでいた家の近くには、なかなかに好い品揃えの古本屋さんがあり、

二人してよく足を運んでいたのですが、その日は夕方ふらりと立ち寄った際、

何気なく手にした雑誌の内容に衝撃を受けて思わず買ってしまったとのことでした。

それが『暮しの手帖』、第2世紀の第1号、私と花森安治さんとの最初の出会いです。

 

1969年に発刊されたその雑誌で、当時編集長を務めていらした花森安治さん。

現在NHKで放送されている、朝の連続テレビ小説とと姉ちゃん』では、

唐沢寿明さん演じる花山伊佐次さんのモデルとなっていらっしゃいます。

 

雑誌『美しい暮しの手帖』(現在『暮しの手帖』)の創刊に携わり、

以降、企画や編集、文章、表紙画、紙面構成から装釘まで、

多岐にわたってご活躍をされました。

  

 

さて、我が家にやってきた『暮しの手帖』の内容はと言えば、

台所仕事への提案や、季節の食材を使ったおかずの作り方、

趣味や、装いのこと、新商品の批評や、世相についてなど等。

 

気の向いたときに適当な頁を開く私の読み方ですと、

そのたび新たな発見のある程に十分な読み応えです。

そして、いずれもが、ほんのわずかの手間や心持ちの整え様で

毎日を愉しむための、知恵と工夫に溢れています。

大変な密度で織り上げられたような言葉や、添えられた絵からは、

日々の暮しを慈しむ花森さんの切々とした思いが伝わってくるようです。

 

何よりも暮しというものを大切に考えながら、それを脅かす存在があれば

ときにたたかうことすらいとわぬ姿勢は、賛否両論を巻き起こしながらも

暮しの手帖』を国民的雑誌に押し上げ、今日に至ります。

 

そのきわめて特異な方針は、広告を掲載せず、中立公正を保ちながら、

政治であれ企業経営であれ、娯楽であれ、色々のことにもの申すというもの。

背景には、戦時中、花森さんご自身が

戦意高揚の国策に協力したことへの後悔があったそうです。

 

「…誰もかれもが、なだれをうって戦争に突っこんでいったのは、

ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしなかったからだと思う。

もしみんなに、あったかい家庭があったなら、戦争にならなかったと思う。」とは、

花森さんが『美しい暮しの手帖』を立ち上げる際に仰ったという言葉。

 

平穏無事な日常の、いかに尊いか。

そのことを、戦争によっていやという程に思い知らされたからこそ、

毎日を丁寧に生きることで暮しそのものを守ろうとなさったのかも知れません。

 

例えば、寝起きをする部屋や食事をする部屋、

家族の集まる場所などを、できるだけ綺麗にしつらえること。

毎日隅々までとはいかなくとも、

目につくところくらいは心地好くいられるよう掃除をすること。

ささやかでも季節ごとの花を飾ってみたり、

服を皺のできないようきちんと仕舞ったり。

あまり多くものを持つのでなしに、手元のお気に入りたちを長く大切に使うことや、

一寸がんばって早起きをすること、自分や家族の好きなおかずをつくること。

 

それは、実際にできるか否かではなく、そうしたいと努めること、

その心持ちが大切なのだという気がします。

 

 

ひたすらに繰り返される毎日のなかで、

暮しということについて考えるならば、

それは、けして特別のなにかに依るのではなく、

むしろあんまりささやかであるために

ないがしろにしてしまいがちなことと向き合い、

その営みのなかにちいさな喜びを見いだしていくことのようです。

 

 

どうかすると、なんとか楽に済まそうなどと考えて、

かえって余計の手間を増やしてしまうことさえある私ですが、

それでもできるだけ今日という日を丹念に生きようと思わせてくださる花森さん。

 

幾らでもないような手間ひまや、そこに注ぐ思いを紡ぐことで、

私たちの一日一日はこんなにも豊かになる…。

花森さんの言葉は、そう教えてくださっているようにも感じられます。

 

 

 

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随分長くなってしまいましたので、

次回、夫が衝撃を受けたという特集、

かの有名な商品テストについて書きたいと思います。

それでは、また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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