ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

ハルとの約束

 

先日、ハルがとうとう二歳の誕生日を迎えました。

 

思い返せば二年前、予定日を過ぎても

一向に生まれる気配のなかったハル。

このままずっとお腹にいるつもりかしらと思う程の

長い長い十日間の後、どうにか無事に生まれたハルは、

目も鼻も口も、手足も指も、何もかもがちいさくて、

そのやわらかなからだを抱いてもなお、

私はまだ本当のことでないような、

ふわふわと夢でも見ているような心持ちでいました。

 

出産直後、ハルを間近にして最初に思ったのは、

「本当に人のかたちをしているんだなあ。」ということです。

それまで、白黒のエコー写真でしか胎内の様子を見たことのなかった私は、

そのときになってようやっと、人の親になったのだと実感しました。

 

そうして始まったハルとの毎日は、極度の寝不足と、

抱っこに授乳、オムツ替え、寝かしつけや離乳食作りといった、

慣れないこと、わからないことだらけで、

想像を遥かに上回る大変さでした。

 

ハルがとにかく寝ないため、

私は途切れ途切れの睡眠時間を足しても

五時間に満たないような生活が一年近く続き、

それはもうほとんど苦行のような有り様でした。

また、食べる量も驚く程少ないハルは、

ほんの数口食べるのにも二時間以上はかかり、

食事の度、作っては捨てるようなことの繰り返しだったのです。

 

それでも、先に出産した知人から

「産後も二週間経つと、もう顔立ちが違って寂しい。」

という話を聴いていたこともあって、

私はハルの成長を見逃すまいと懸命でした。

何もかも、今だけのこと、

そう考えてみることは、日々を大切に過ごすうえで

とても良い役割を果たしてくれるように感じます。

 

実際に、大人と並んでいるとまだ随分とちいさなハルですが、

生まれた頃の写真を見るとまるで様子が違っています。

いつの間にこんなに成長したのだろうと、

すぐにまた嬉し寂しい心持ちになったりもするのです。

 

 

 

 

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私には、ひとつ、心のなかで決めたハルとの約束があります。

それはハルに、“生きることは幸せだと身を以て示す”というものです。

 

いつだって優しく誠実で在りたいけれど、

実のところ、それはとても難しいことです。

自分の力を信じたいけれど、思う通りにできないことや、

無力感から自分をいやになるときのあることも知っています。

ハルにも、そんなふうに心の塞ぐことがきっとある、

それでも、生きていることを幸せと感じられるように、

まずは私自身が、親として、人として、

自分の人生を心豊かに生きる姿を見せたいと思うのです。

 

生きることを辛いものとしてしまったら、

ではなぜ自分を生んだのかという疑問にも繋がりかねないような気がします。

苦しいことも、悲しいこともあるけれど、それでも、世界は美しいと伝えたい。

そこで一緒に生きていきたいと思えばこそ生んだのだと感じてもらいたい。

突き詰めれば、それが親として果たすべき役割の

ほとんどすべてのようにすら思われるのです。

 

 

とは言え、私自身、記憶があるのは

せいぜい四歳か五歳くらいからですので、

自分で認識できる時間を人生と呼ぶならば、ハルはまだ、

人生が始まるまでにも、あと二年はあることになります。

今こうして二人で世界を見て、聴いて、感じていることの大半を

ハルは忘れてしまうのかもわかりません。

それでも、確かに昨日が今日をつくり、

今日が明日をつくるのであれば、その続いていく先で、

ハルの心を満たすものの一片くらいにはなれるはずと信じています。

 

 

“生まれてきてくれて、ありがとう。”

そんなふうに思いながら、今日もまた愉快に過ごす、

イヤイヤ期真っ盛りな二歳のハルと、

少しの余裕を持って見守れるようになった私です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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