ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

映像辞典【急がば回れ】

 

急がば回れ:急いで物事をなしとげようとするときは、

早道や危険な方法を選ぶよりも、安全確実な遠回りを行くほうがかえって得策である。

 

 

机の向こう端に転がった蜜柑を、

なんとか手を伸ばして取ろうとしていたハル。

いつの間にやら、からだごと机の上に乗り上げているのですが、

それでも届きそうにありません。

 

“歩いて取りに回った方が早いよお”と、心の中で声をかけつつ

様子を見守るも、他の方法はまるで考えにないようで、

指の先までいよいよ懸命に伸ばしてがんばっていました。

 

以前、友人と、色々の言葉を映像で記録する辞典があったら面白いねえなどと

話していたことを思い出し、もしもそんな辞典があったなら、

急がば回れ」の欄にはぜひこの光景を採用してもらいたいと思ったのでした。

 

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いつか同じような場面で、何ということもなしに向こう側へ回るハルを見たときに、

それだけで一寸感動してしまう自分の姿が目に浮かぶようでもありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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“子どもが必ず手伝いをする魔法の言葉”から考える、遊びの本質。

 

 昨日、日本テレビの『世界一受けたい授業』という番組で、

“子どもが必ず手伝いをする魔法の言葉”というものが紹介されていました。

先生役は、ジェニファー・L・スコットさん、

『フランス人は10着しか服を持たない』という本の著者と聞けば、

ご存知の方も多いかも知れません。

 

さて、その魔法の言葉、

それは「どこに片付けるのか教えて」と、子どもに訊くというもの。

「片付けなさい」などと強制するのではなく、

子どもが自発的に片付けたくなるように工夫をするという方法でした。

 

番組中、お母さんに「もうごはんだからおもちゃを片付けて」と言われると

「いや!」と反発していたお子さんが、「どこに片付けるのか教えて」

と尋ねられると、率先して片付けをする様子が紹介されていました。

子どもは大人に教えてあげることが好きなのだという解説もありましたが、

あんなにも子どもの行動に変化が見られると、

確かに魔法の言葉というのも過言ではないように感じられます。

 

ですが、この言葉、実は大抵のお母さんが、

本当は知っているもののようにも思われるのです。

それは、遊びのなかでの一場面。

子どもが愉しそうに積み木を並べていたり、

おままごとのお料理を作っていたり、そんな時、自然と口をついて

「上手だねえ。どういうふうにやったの?」とか、

「どうやってやるのか教えて。」と言葉をかけた経験があるのではないでしょうか。

 

思い返せば、私もハルと遊んでいる時、

よく同様の言葉を口にしていることに気が付きます。

「すごいねえ、それハルがやったの?どんなふうにやるのかお母さんにも見せて。」

と言うと、些細なことでも喜んで教えてくれるのです。

 

それではなぜ、片付けとなるとこの言葉が出てこないのでしょう。

私も、「一緒にお片付けしよう」と誘うことはあっても、

「どこに片付けるのか教えて」という声かけをしたことはありませんでした。

それは、私のなかで、無意識のうちにも片付けを愉しくないものとして捉え、

ハルが自らやりたがる可能性を否定してしまっていたからなのかもわかりません。

ですがハルにとっては、遊びとそれ以外との間に明確な線引きなどないわけです。

これは、とても大切なことのように思われます。

 

公園の遊具でも何でも、大人はつい決まった遊び方ばかりにとらわれてしまいがちですが、

子どもが愉しいと感じれば、それはどのようなことでも立派な遊びのはずです。

 

たとえば滑り台。

階段を上って滑るという遊び方を知っている大人は、

つい子どもにそれを教えたくなります。

もちろん善かれと思ってのことですが、教えるばかりでなく、

いつの間にかそれ以外の行動を咎めてしまうことさえあります。

けれども、子どもにとっては、

階段を上ることが愉しいのかも知れません。

からだの動き、足の感覚、目線の変化、

あるいは天辺まで上った達成感と、そこから眺める景色が

喜びと感じられるのかもわかりません。

ですが、いつまでも階段の途中や上った先で立ち止まっている我が子を見ると、

せっかくだから滑れば良いのにという気持ちになってしまうのです。

 

遊んでいるお友達が他にもいる場合には、

危なくないように、迷惑にならないように、気を付ける必要があります。

大勢で遊ぶときの約束事や思いやりを教えることも大切です。

 

ただ、遊びとは本来、遊びだから愉しいというものではなく、

愉しいから遊びなのだ、ということを心に留めておくことは

きっと同じくらいに意義深いことのはずです。

 

 

先の“子どもが必ず手伝いをする魔法の言葉”も、

けして大人が楽をするためのものとして考えるのではなく、

物事のなかに愉しみを見いだす経験を通じて、

いずれは子ども自身の世界を豊かにする言葉とすることができれば、

なお素敵なのではないでしょうか。

 

 

 

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ちいさな魔法を、そっとかけてあげられるような、

そんなお母さんを目指して、今日も奮闘中なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウィルス性胃腸炎 その後

 

なんやかんやとぐったりしつつも、

おかげさまで私とハルは思いのほか早くに回復しました。

 

そして夫は無事のまま、これで我が家の

ウィルス性胃腸炎の流行は収束したかに見えましたが、

少し間を置いて、最後にはやはり夫にもうつってしまったのでした。

 

こんなとき、不思議と夫の症状は、家族のなかでも比較的長引きます。

乳幼児でも、男の子の方が女の子よりも体調を崩しやすいと聞きますし、

女性のからだはさすが出産に耐えうるだけに、

丈夫にできているということなのでしょうか。

 

ちなみに、元気になったハルは体力が有り余っているので、

傍で一緒に看病をするというわけにもいかず、

一寸かわいそうな気もしますが夫は一人で留守番でした。

 

 

 

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今は皆すっかり元気です。

ですが、来るべきインフルエンザの流行に向けて用心しないといけませんね。

感染性の風邪が色々と猛威を振るっているそうですので、

皆様もどうぞ体調にはお気をつけて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウィルス性胃腸炎と雪景色

 

つい先日、ハルが食後に突然嘔吐しました。

これまでにない症状に不安を覚えつつも、ハルくらいの月齢ですと

まれにこうしたことはあるそうなので、しばらくは様子を見ることに…。

 

すると、しばらくしてまた嘔吐。その後も再び嘔吐をしたため、

さすがに心配になり、小児科を受診することにしました。

診断は、「ウィルス性胃腸炎の疑いあり」とのこと。

吐き気止めの座薬と整腸剤を頂いて帰ってきました。

 

嘔吐は体力を消費しますし、慣れないことに驚いたのもあってか、

ハルは少々ぐったりした様子でしたが、幸い熱はなく、

その晩はさほど具合が悪いというふうでもなく眠りにつきました。

 

次の日、嘔吐は収まったものの、今度はお腹をくだしてしまったハル。

それでも食欲はあるため、かえっていつものおやつなどを我慢してもらうのが

大変だったほどで、夫と二人、ようやっと少しは安心という心持ちになったのでした。

 

そして翌日の早朝、恐れていた事態が起きてしまいました。

日中から断続的に眠っていたため、明け方にわかに起きだしたハルと

絵本を読んでいると、なにやら胸の辺りがもやもや…。

嫌な予感が気のせいであることを願うも束の間、程なくして私も嘔吐。

完全にうつってしまったのでした。

それから案の定お腹も壊し、さらに熱も出た私は、

そこから頭痛と腹痛、そして吐き気に苦しむこととなりました。

 

こんなとき、何が一番大変かと言えば、

一人で静かに養生することができないということです。

もちろん、仕事があればそうそうゆっくりもしていられませんが、

感染性のものであれば休まざるをえません。

まして今回のような症状でしたら、途中で意識を失って倒れるのではと思うと

満員電車になど乗れませんので、やはりお休みをいただいていたはずです。

それが今は、横になるどころかハルをみていなくてはいけません。

 

まだ体調の万全でないハルは、不安感からか、

いつにも増して私以外を受けつけず、

「だっじゅ(抱っこ)!だっじゅ(抱っこ)!」と繰り返します。

腹痛とハルとを同時に抱えながら歌おうものなら、

もうあまりのしんどさに息も絶え絶えと言った具合です。

 

 

折しも外は初雪の舞う真冬の様相。体調が万全でないせいか、

はたまた消化に良いものばかり食べていて常に空腹のせいか、

とにかくすぐに癇癪を起こすハルを窓辺へ連れて行き、二人で雪景色を眺めました。

それを、動画に撮る夫。

 

映っているのは、髪はぐちゃぐちゃ、服はよれよれの、ひどい有り様の母娘ですが、

あとから見返せば、それでも良い思い出になるものでしょうか。

 

「ああ、あのときは本当に大変だった。」と、せめて沢山笑ってやろうと思っています。

 

  

 

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宝探し

 

今、大人になった私が、

ハルという存在を知らずに一人で歩いていたならば、

咲いている花に立ち止まることがあったとしても、

足もとまで色々になにか探し歩くことは

きっとしなかったろうと思います。

 

ハルと外へ出ると、葉のかたちや、

陽に透いた花びらの色模様にはっとするばかりでなく、

普段気に留めないようなところにまで関心が向くために、

とても素敵な時間を過ごすことができるのです。

 

けれども振り返ってみれば、確かに私にも、

秘かな喜びとともにツツジの蜜をそっと口に含んでみたり、

やたらとオシロイバナの種を集めてみたりする頃がありました。

ああした子どもの時分には、一寸近くの公園へ行くのでも、

あっちこっちと随分寄り道をしていました。

 

まだ背丈も低く、草花とずっと近しい目線で歩いていたときには、

ちいさな赤い実も、道端の花も、猫じゃらしの穂も、

足元を埋め尽くす落ち葉も、なにか妙にしっくりくる木の枝も、

他の多くの物事と同じに等しく価値があり、

世界はもっとずっと豊かなものとして目に映っていたように思われます。

 

ハルにとってみれば、今まさに、

そこらじゅうが宝物で溢れているように見えるのかもわかりません。

 

まるきりハルと同じ心持ちでいるのは難しいにしても、

ハルが世界を見つめる目を尊く感じることは、

きっと忘れずにいたいと思っています。 

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そんなハルとの道草ですが、近頃は何を拾うにしても、

ハルが「しゃん(お母さん)!」と指差し、私の分も拾うように言います。

虫食いのないドングリ、傷んでいないハナミズキの実、

綺麗なものをふたつずつ探すのは、思いのほか大変です。

 

それでも、お互い揃いのものを手に「同じだね。」と話すときの

ハルの笑顔が嬉しくて、やっぱり私も一緒にいそいそと宝物を探しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ポケットの中には

 

お出掛けをすると、行く先々で次から次へとものを拾うハル。

今時分であれば、艶がかったドングリの実や、

ところどころ色の移ろうイチョウの葉、

やわらかな山茶花の花びらなどを手にしては、

熱心にポケットへ仕舞い込んでいます。

 

時折、ハルがポケットのない服を着ているときには、

私の服のポケットを探って中へ押し込むこともあります。

大切な宝物を預かるので、つぶさないよう気を配るのに一苦労です。

 

この拾いもの、場所やものによる善し悪しを

説明するのがとても難しく、どうにも悩みの種です。

今のところ、私有地でない場所の、このまま風に吹かれて

どこへゆくともわからない自然のものについては、

拾っても良いこととしています。

 

例えば、よそのお庭から公道に落ちたお花は、ありがたくいただいています。

ただし、あんまり立派なものではなく、雪柳の白い小花や、

先程の山茶花のように花びらがはらはらと散ったような程度のもの。

あるいは、道端の小石や木の実は拾っても大丈夫、等々。

気をつけなくてはいけないのが、お寺の境内や駐車場などです。

意図的に敷き並べている小石はいじったらもとに戻すこと、

もちろん草花は見せてもらうだけ。

そうしたことを、都度説明するようにしています。

 

幼いハルにとって、伸び伸びと枝葉を伸ばす木々や、

心地好さそうに揺れる草花に手を伸ばしたくなる衝動は、

とても大切なものだと感じます。

そこに、公の場所、あるいは他の誰かの場所など、

触れることの善し悪しに違いを見いだすのは、

私が想像するよりずっと難しいことに違いありません。

それでも、皆の大切なものが隣り合うなかで生きていくわけですから、

ゆっくりでも丁寧に伝えていかなくてはと思っています。

 

 

 

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この頃のハルは随分よく理解するようになりましたので、

あまり慌ててしまうこともありません。

つい軒先の植木に触れそうになっても、「優しく、優しくね。」と言うと、

そっとちいさな手で撫でています。

 

 

ですが、銀杏のミイラみたいなものや、

不自然に鮮やかな黄緑色をしたキノコなど、

時々とんでもないものを嬉しそうに見せてくれるハル。

声にならない声で叫びそうになることもしばしばです。

 

なんでもかんでもだめとは言いたくないのですが、

やはり受け付けられないものも多く、

さみしくも私はもう子どもではないのだなあと日々実感しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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私と蜜柑

 

先日、ハルの蜜柑好きについて書きましたが、

何を隠そう私も蜜柑が大好物です。

 

子どもの頃は、祖父母から誕生日プレゼントに

段ボール箱いっぱいの蜜柑をもらう程。

それをほとんど一人で、あっと言う間に食べきっていました。

秋の深まる今時分には、もう早速手足が蜜柑色になっていたものです。

 

皮を剥くたび広がる、瑞々しく澄んだ香り。

秋の、薄い黄金色の陽が、芯まで染み込んだような淡い色。

少し控えめな甘味の中に程好い酸味が溶けた、清々しい後味は、

ついもう一つばかり、かごに手を伸ばしたくなってしまいます。

 

あの、からだ全体に行き渡るような香りをいっぱいに嗅ぐと、

私は自分がまだ子どもだった頃のことを思い出します。

けれどもこれは早摘みの、一寸青みがかったようなのでなくてはいけません。

近頃よく見られるような、あんまり甘味の強い蜜柑はどうも馴染みません。

私にとって蜜柑の香りと言えば、もっと軽やかな、すっと潔いものです。

 

例えば小学校の運動会、

両親や祖父母と一緒にお昼ごはんを食べるときには、

食後に必ずあの青みがかったような蜜柑がありました。

薄く張った皮を剥きながら、

さっきまでの学年別の出し物について話したり、

午後のリレーの出番を説明したり。

 

あの頃は、まだ今程に多様な果物はなかったように思います。

秋の果物と言えばやはり蜜柑や林檎、柿などでしたから、

とりわけ包丁要らずで手軽に食べられる蜜柑は行楽のお供に欠かせませんでした。

校庭は、あちこちの家族で蜜柑を食べるために、

その数だけ実が成ったような、それは良い香りが漂っていたものです。

 

週末に祖父母の家へ行くと、

この時期必ず用意をしておいてくれたのも蜜柑です。

おやつに食べ、夕飯のあとに食べ、

なにやらひっきりなしに食べ続けていたような気もします。

勢い良くぱっと食べてしまう私と違い、

母は、白い筋を丁寧にとって、

一つの蜜柑をゆっくりと味わうように食べていました。

三個くらいをさっさと食べてしまった私に、

その綺麗に筋のとれた蜜柑をわけてくれた母。

それは、不思議と特別美味しく感じられました。

 

こうして考えると、蜜柑は、

母と私、そして母となった私とハル、

それぞれの家族の思い出でもあります。

 

今日もまた、ハルと一緒に蜜柑を食べるでしょう。

そのときにはきっと、ほんのわずかの間、

私も子どもに戻ったような気持ちになるのです。

 

 

 

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