ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

“皆幸せ”が、幸せ。

 

ハルは、誰かが怒ったり泣いたりしている様子が苦手です。

絵本でそうした場面に出くわすと、見せないでと言わんばかりに

逃げ出し、早く先の頁へ進むよう遠くから指示を出します。

テレビの場合には、同じく隣の部屋などへ駆け込み、

物陰から不安げに見つめているか、もしくは観ないで済むよう、

懸命に手で顔を覆っています。

 

ぎゅっと目をつぶり、ちいさな手を顔に当てる仕草は、

まるで誰かを悪く思うときなどの嫌な気持ちが

自分の中へ入り込むことのないよう、全身を塞いでいるみたいです。

 

そして反対に、ハルは誰かが笑っていたり、

楽しそうにしていたりする様子がとても好きです。

その場にいる皆が仲良く遊んでいる光景などを見ると、

本当に嬉しそうにしています。

 

ハルにとって、哀しみや幸せは、

それが誰か知らない自分以外のものであっても、

けして他人事ではないのかも知れません。

 

 

 

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たとえばどこかに困っている人がいて、

その人に手を差し出したときに、

「その人が助かるなんて、ずるい。」と言う

別の誰かがいたとしたら、私には、その人もまた、

本当は助けてもらいたいのだというような気がしてなりません。

だけれども助けてほしいと言えないで、

あるいは言ってはいけないと自分に言い聞かせて、

苦しんでいる

もしか自分が助けてもらいたいのだということに、

気がついていないということも、あるのかもわかりません。

 

ある程度生きていたら、哀しみのまるで無い人など、きっといないのでしょう。

皆それぞれに、様々な思いを抱えているように感じられます。

 

本当は、皆が助かれば良い。

哀しみの比べ合いではなくて、

苦しみのぶつけ合いではなくて、

皆が幸せになったら良い。

 

けれど、もしも助けの必要な人皆を

掬い上げることができないのだとしたら、

それは、制度や理解が不十分であったり、

各々があんまり精一杯で、差し出す手が足りないだけ。

自分は苦しくても仕方がない。

だから、あの人も苦しんで当たり前。

そんなふうに納得して生きるのは、

余程苦しく哀しいことのような気がするのです。

 

 

皆が幸せになったら良いと、皆がそう思うだけで、

少し、何かが変わる…。と言うより、

誰かが困っていたら心配になるし、苦しんでいたら心が痛む、

誰かが泣いていたら哀しいし、笑っていたら嬉しい、

私たちの心は、もとは確かにそうできている。

 

手を顔に当ててもたれるハルの頭を撫ぜていると、

ふと、そんなふうにも思われるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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