ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

「あたし おかあさんだから」、自分を生きよう。

 

 

いつの頃だったか、 私は、

自分がお母さんになる日が来るかも知れない

ということを、とても不安に思う時期がありました。

 

私の言葉を聴き、私の傍で見る世界は、

どうしたって私の尺度に依るのでしょう。

そうして少なからぬ時間を私と過ごすであろう

我が子を思うと、自分にそれだけの用意があるかしらと

まるきり自信をなくしてしまうのです。

 

母として振る舞うときにも、根底に在るのは、

やはりひとりの人間としての自分に違いありません。

今になって振り返ると、そのことを

無自覚ながらに感じていたようにも思われます。

 

 

 

ふとそんなことを考えていた折り、

『あたしおかあさんだから』という曲の歌詞が

一寸した話題となっていたことを知りました。

 

それは、あるひとりのお母さんが

出産前を振り返ることに始まり、

我が子と過ごす中で次第に自分よりも子ども優先に

生きるようになった日々を、喜びとして綴るものです。

 

眠いまま朝5時に起きたり、

大好きなおかずをあげたり、

服装を変え、好きなことを諦め、

自分より我が子のことばかり、

と奮闘するお母さん。

 

その内容に共感を覚えるという方がいらっしゃる一方で、

「母親にばかり負担を強いているように感じられる」、

「子どもが聴いたときに心苦しくなってしまうのでは」等々、

苦言を呈する方も多くいらしたのだそうです。

 

拝見したご意見はどれも胸に迫るものがあり、

私は、どうも何事か考え込まずにはおれませんでした。

 

 

これは私自身の、以前の言葉の引用ですが、

私には、ひとつ、心のなかで決めた約束があります。

それは我が子に対して、

“生きることは幸せだと身をもって示す”というものです。

 

いつだって優しく誠実で在りたいけれど、

実のところ、それはとても難しいことです。

自分の力を信じたいけれど、思う通りにできないことや、

無力感から自分をいやになるときのあることも知っています。

あの子にも、そんなふうに心の塞ぐことがきっとある。

それでも、生きていることを幸せと感じられるように、

まずは私自身が、親として、人として、

自分の人生を心豊かに生きる姿を見せたいと思うのです。

 

生きることを辛いものとしてしまったら、

ではなぜ自分を生んだのかという疑問にも

繋がりかねないような気がします。

苦しいことも、悲しいこともあるけれど、

それでも、世界は美しいと伝えたい。

そこで一緒に生きていきたいと思えばこそ

生んだのだと感じてもらいたい。

 

突き詰めれば、それが親として果たすべき役割の

ほとんどすべてのようにすら思われるのです。

 

 

母親となった今こそ、なお一層、

自分の人生を生きるということが重要な意味を

成すことにも気が付きます。

 

自分自身で見て、聴いて、考え、惑い、

そうして初めて実感のこもった言葉や態度でもって、

我が子と向き合うことができるように思うからです。

 

私は、親と子であるまえに、

ひとりの人間対人間として、お互いを認め、

尊重し合えるようでありたいと願っています。

 

それは、けして対等なものを求めるとか、

何でもかんでも大人と同じに扱うということでなく、

生きていることの普遍的な尊さを分かち合いたいのです。

 

 

とは言え実際のところ、

「おかあさん」として過ごす日々は、

目眩のする程に慌ただしく流れていきます。

我が子の傍に寄り添うばかりでなく、

次から次へと押し寄せる「家の仕事」や「外の仕事」を、

荒波を掻いくぐるようにこなしていかなくてはなりません。

 

体調はもとより、心も次第に疲弊していきます。

そうして、自分へも、我が子へも、寛容でいられなくなることに

はたと気がついたときの哀しみは、とても言葉では言いようのないものです。

 

もしか、我が子と真摯に向き合いたいと思う分だけ無理を重ね、

かえって自分を苦しくしてしまうことだってあるのかもわかりません。

 

先述の『あたし おかあさんだから』という曲の歌詞を、

多くの方が受け入れ難く感じたことも、あるいは

こうした無理のある状況それ自体を、「母としての喜び」と

捉えているかのような言葉のためでないかと思われもします。

 

我が子と世界を見つめ、感動するという、

親として最も尊いことがままならない状況への切々とした思いが、

無意識のうちにもあらわれているのだという気がしてならないのです。

 

 

歌詞の中のお母さんは、あんまり健気で、

私にはいとおしくさえ感じられるのですが、

それでいてどこか胸の苦しいような思いもします。

特に、自分よりあなたのことばかりという考え方は、

結果そうなる場面が多々あったとしても、

何やらもどかしいものがあります。

 

余計なこととは承知のうえで、それでもあえて言葉にしたい。

子どもたちが尊いことと同じ理由で、お母さんたちだって尊いのです。

そしてまた、我が子に限らず、誰かを通して知る世界の素晴らしさを

嬉しく思えたなら、それはすでに自分のことと言えるのではないでしょうか。

 

私は、自分の大好きな苺を我が子が欲しがれば、

その喜ぶ顔見たさに幾らでもわけてあげたくなります。

けれども時には、こっそり内緒で

美味しいお菓子を食べたくなることもあります。

 

他に大切なものがあろうとなかろうと、

我が子のためにどれだけのことができようとできなかろうと、

子どもたちと、お母さんが、お互いの生きていることを

喜び合えるようであってほしいと願ってやみません。

 

 

 

それから最後にもうひとつ、つぶやきを。

 

誰かが自分のために伝えてくれた言葉が、

たとえ求めているものではなかったとしても、

その気持ちに感謝をしたいと思います。

 

そしてまた、誰かのしたことが、

本人や周囲の考えとは違う方へ向かい、

哀しむ人があったとしても、

それを許し合える社会であってほしいとも思います。

 

言葉や行いに、意図することとの差異が生じているのであれば、

それを丁寧に伝えていく姿勢はとても大切です。

 

愛しい子どもたちが生きていくこれからの日々にも、

そうした悩みや葛藤が、きっとあるから。

子どもたちと、かつて子どもだった大人たち皆が

お互いを労わり合える社会であってはじめて、

今はまだちいさい我が子が成長したときにも、

幸せに生きることができるのだと思うのです。

 

 

 

「あたし おかあさんだから」、自分を生きよう。

 

語弊を恐れずに、強いて言うならば、

私は母となったことで、より責任をもって

自分を生きようと思っています。 

 

 

f:id:someyakaoru:20180318235816p:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:someyakaoru:20180205142945p:plain