ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

春の七草粥のお話

 

昨日ご紹介した西村亨先生の著書『王朝びとの四季』は、

身近な草花などの自然に対する感受性についてだけでなく、

今も残る伝統行事や各風習の起こりなども、

大変丁寧に解説してくださっています。

 

その中に、一月七日にいただく

春の七草粥の由来についての一節がありました。

 

「正月七日は若菜のあつもの(吸い物。スープ)を喫する日で、

春浅い郊外の田園には若菜を摘む人々の姿が見られる。

王朝びとの行楽のひとつである。(中略)

寒さはなお去りやらぬけれども、消えかかった雪の間に、

はやことしの小さな生命がもえ出ている。

青々とした若菜の色に春の喜びが実感として迫ってくるのである。」

 

もともと、奈良朝もしくはそれ以前の古い時代には、

地方の豪族の娘さんが野に出て若菜を摘む風習があり、

それが族長階級の男女の結婚の機会にもなっていたのだとか。

それは別段、いつと日取りの定まったものではなく、

野辺の若菜が摘むにふさわしくなるのを待って、

うららかな春の日に野外へ出るのを楽しむようなものでした。

 

また、平安中期の女流歌人赤染衛門の歌集に、

若菜のことを「ななくさ」と呼んでいる例があり、

その七種が何々であったかはわからないものの、

後世、若菜のことを「ななくさ」(「七草」は当て字)と呼び、

それが今日の「七草粥」の源流となったのだそうです。

 

今日では、七草と言えば、せり、なずな(ペンペン草)、

ごぎょう(母子草)、はこべら、ほとけのざ

すずな(かぶ)、すずしろ(大根)と決まっていますが、

時代により、説により、その七種の植物は少しずつ異なります。

 

そして本来、正月七日に若菜を摘むのは人日(じんじつ)と言って、

正月の最初の子の日に小松を引き若菜を食するのは子の日の遊びとして言い分け、

模倣するもととなった中国でもふたつの別種の行事のように

区別されていたとの記録があるそうです。

 

七日の「七」にちなんで七種の植物を摘むというように形が整理され、

さらに中国風の人日や初子の日に影響されて時期を早め、

そうして、ぎりぎりのところまで日を繰り上げて、

わずかに雪間に見いだされる緑を摘んで、

あつものとするようになったのではないかと推察されています。

 

「小松にしても、若菜にしても、その生い先の長い、

生命力に富んだ若さがめでたいものとされる理由であった。

そういう植物や動物の持つ精気を摂取することが

人間の健康と生命を維持する手段である、と昔の人々は考えていた。」

 

病や、季節の移ろい、陽の昇ることや沈むこと、

稲穂の実りや雪の降るわけなど、

科学やら生物学やらなにも知れない時代、

ただ健やかにあることが、とりわけ切実な願いだったのでしょう。

そんなふうにして懸命に生きていた人々の風習が、

途方もない時間をかけて今の私たちの暮らしにまで引き継がれているのかと思うと、

こうした行事にも実に深い趣が感じられます。

 

ちなみに、肝心の王朝びとはと言えば、

実際のところ女性たちが本当に郊野へ若菜摘みへ出掛けていたかと言えば

必ずしもそうではなく、また男性であっても自ら若菜を摘んでいたのは、

おそらくは平安朝の初期頃までではないかとのことです。

のちには、ただ若菜を小さな美しい籠に盛って、

歌を添えて贈るのが約束事だったのだとか。

 

自分で摘んだわけではないであろう若菜を、

さも自ら摘んだように労を誇示するというのはいささか図々しいようでもありますが、

それでも相手の健康や長寿を祝福するというのはとても素敵な風習だと感じます。

 

 

これまでは、ただなんとなくそういうものだからと

謎に七種の草をお粥にしていましたが、

明日の七日には、家族の健康を願って美味しくいただきたいと思います。

 

 

 

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