ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

ハル、という存在。

 

いつの間にか知れないのですが、

近頃ハルが「あう( ハル )」と言いながら、

自分のことを指差しするようになりました。

それは、「自分でやりたい」、「自分がやりたい」、「自分もできた」など、

まさにハル自身を指し示すもので、頬を指で触れるような仕草です。

 

これまでこうした意思を表現する際は、大きく声を上げたり、

ときに癇癪を起こすような態度を見せていたハル。

自分という存在の主張ができることで、

幾分落ち着いた意思疎通が行えるようになりました。

 

思えば、ハルがまだ生後五ヶ月位の頃、自分の足に気がつき、

その感触を確かめるように舐めている時期がありました。

聞くところによると、赤ちゃんには共感覚という能力があり、

口に含むことで、触覚によって得た刺激を視覚情報としても共有できるのだそうです。

つまり、舌で触れることによってものを見ている、ということになるのでしょうか。

 

この驚くべき方法で自己を認識していくわけですが、

一歳半を過ぎた頃、ハルはさらに大きな発見をしました。

 

鏡に映る自分、です。

 

初めてハルに鏡を見せたときの、そのはっとしたような表情は、

とても印象深いものがありました。

これは単に自分の外観を知るということだけでなしに、

思い描いていた世界の在り方が大きく変わることを意味するように思われます。

 

自分という、どこか漠然とした意識。

すべての物事が渾然一体となって存在していた世界。

それが、鏡に映る自分の姿を見ることで、

自分もまたこれまで目にしていた多くの人々と同じ、

一人の人間であることを知り、自他との境界を知るわけです。

 

ハルが自分の存在を認識し、

言葉と指差しを伴って主張できるようになったことで、

ハルのなかにはどのような変化が起きているのでしょう。

 

 

「人間は考える葦である。」とは、

十七世紀フランスの哲学者にして数学者、

また科学者でもあった、ブレーズ・パスカルの言葉。

少し解釈がややこしいのですが、

思考することのなかに尊厳が在り、それによってこそ人間は人間足り得る、

といったところでしょうか。

 

どうかハルには、考えることの大切さや楽しさを知り、

そうして自分と向き合いながら、その存在を受け止めて幸福に生きてもらいたい…。

ハル、という存在の尊さを思うにつけ、母である私はそんなことを考えるのでした。

 

 

 

 

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