ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

撫でたり、抱きしめたり。

 

ハルと一緒にいると、どうやら確かに私たちは

動物の一種らしいと実感することがあります。

抱っこひとつをとっても、ひっしとしがみつく健気な様はまるで子猿そのもの。

生まれたばかりや、そうでなくても激しく人見知りをしていた頃などは、

嬉しいというだけではない、より切実な意味を持つようにも思われたものです。

 

子猿にとって、母親に抱かれている状態は、

ひとつに移動のためであり、外敵からの逃走手段でもあるのでしょう。

また、母乳を得るためにもはぐれるわけにはいかず、

つまりは身を守り栄養を摂取するという、生存するうえでの重要な行為であるはずです。

そのための環境が確保されているということそれ自体が安心感へと繋がり、

それによって享受する平穏こそが喜びとして感じられるのではないでしょうか。

 

実際、人見知りのハルは、自分で歩けるようになってからも、

通りの向こうから見知らぬ人が歩いて来ると、

おびえるような表情で私によじ上ろうとしていました。

また、どなたか初対面の方に話しかけていただいたときなどは、

私の胸に顔をうずめ、ほとんど居ない振りでもしているかのようにとじっとしています。

そんなとき、私はいつもできるだけ大げさに、包み込むようにしてハルを抱きしめました。

特にその場を離れずとも、ただそれだけで

ハルの波立った心が落ち着いていくように感じられるのです。

 

大丈夫、大丈夫なのよ。

安心、安心よ…。

 

ハルにとって世界はあまりに未知で、不安も相当に大きなもののはずです。

撫でたり、抱きしめたりすることは、

大切なあなたを精一杯守りますよ、という

意思表示にもなり得るのだという気がしています。 

それは同時に、守るに値する存在であり、

生きるべくして生きているということの証でもあるようです。

あなたは、必要とされている。

そうした存在の絶対的な肯定を受け続けることが、

子ども自身の自己肯定感を育むようにも思うのです。

 

 

そうしたわけで、私は日頃から存分にハルを抱きしめたりなどしています。

積み木をがんばって重ねたとき、ひとりでズボンをはけたとき、

上手に絵本の頁をめくれたとき、転んで膝をすりむいたとき、

あるいは、ただ無性にいとおしくて堪らなくなったとき。

頭を撫で、頬に触れ、そうして抱きしめていると、

あたかもお互いがその温みのなかに溶け合うようです。

 

きっとそのうちに、恥ずかしがって

こんなことさせてもらえなくなるかも知れない。

せめて、今だけは…。

そんなふうにも思いながら、触れ合うことをめいっぱい大切に、楽しんでいます。

 

 

 

 

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