ハルの庭

三歳の娘との、毎日の暮らしを綴っています。

三歳児ハル、二歳を懐かしむ。

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早いものでハルも三歳と五ヶ月になり、

同じ服でも、季節の始めと終わりで

着たときの具合がだいぶ違ってきました。

 

先日、もう次の冬には着られないであろう服を

しみじみとした心持ちで整理していると、

傍に来たハルがひょいと覗き込み、

歓声をあげました。

 

広げていたのは、二歳だった頃のハルが

とても気に入っていたもの。

私にとっても、大変思い出深い一着でした。

 

それを、赤ちゃんを抱っこするかのように

そっと手にしたハル・・・。

その表情は、まさに「懐かしい」という感情が

ぴたりと合うような絶妙さです。

 

三歳児が二歳を振り返る様子は

面白くもあり、可愛らしくもあり、

ちょっぴり切なくもなるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ハルのお喋り ミュージカル編

 

 

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保育園で教えてもらった歌を口ずさみながら、

かろやかな足取りで部屋のなかを躍ってまわるハル。

 

そのまま、つつつと父に歩み寄り、

肩に手を置いて一言。

 

「さあ、一緒にお歌をうたいましょうよ!」

 

 

それはもう、あの素敵な名作映画さながら、

まるでミュージカルを観ているようです。

 

日頃、歌などけして

うたわない父も心を動かされ、

思わずうたっ・・・たかどうかはさておき、

観ていた私はとても愉しい名場面でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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なんとしよう。

 

 

 

あの子が、そっと息をする度に。

あるいは まばたきや、頷き、微笑み、

涙を流したりなどする その度ごとに、

どこか少しずつ違っていく気がして、

ただひたすらに見つめてしまう。

 

いつの日か、私は あの子の

ちいさな手のぬくみを思って泣くでしょう。

 

いつの日か、私は あの子の

やわらかな髪の匂いを思って泣くでしょう。

 

いつの日か、私は あの子の

憤る懸命さを思って泣くでしょう。

 

いつの日か、私は あの子の

驚きや喜び、その真っ直ぐな瞳の色を思って泣くでしょう。

 

知っていてなお、

留まることのできない日々をなんとしよう。

 

 

いとおしさと もどかしさで、

たまらずあの子を抱きしめる。

抱きしめる、抱きしめる、抱きしめる、

抱きしめる。

 

こんなとき、無心に抱きとめてもらえるのは

いつまでだろうと思いながら。

 

 

 

 

 

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ハルの寝言

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ぐっすり眠っていると思ったら、

不意に大声で叫んだり、

ささやくようにお喋りしたり。

 

そんなハルの寝言を聴くことが、

秘かな愉しみでもあります。

 

先日は、一体どんな夢を見ていたやら、

「特別なものが食べたい!!」と、

まるでどこぞの王様のようなことを

主張していました。

 

その切実な様子をいとおしく思いながらも、

寝言で良かったと一安心です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ハル三歳「勝利の法則」

 

 

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保育園で、じゃんけんを教えてもらったハル。

家でも早速やってみるのですが、まだいまいち

遊び方は分かっていない様子。

 

どうもパーがお気に入りのようで、

それだけを出しつつ勝利を収めるための

法則を編み出しました。

 

 

約束された勝利にも大喜びするハルが

あんまり可愛らしくて、

ここぞではやはり負けてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「あたし おかあさんだから」、自分を生きよう。

 

 

いつの頃だったか、 私は、

自分がお母さんになる日が来るかも知れない

ということを、とても不安に思う時期がありました。

 

私の言葉を聴き、私の傍で見る世界は、

どうしたって私の尺度に依るのでしょう。

そうして少なからぬ時間を私と過ごすであろう

我が子を思うと、自分にそれだけの用意があるかしらと

まるきり自信をなくしてしまうのです。

 

母として振る舞うときにも、根底に在るのは、

やはりひとりの人間としての自分に違いありません。

今になって振り返ると、そのことを

無自覚ながらに感じていたようにも思われます。

 

 

 

ふとそんなことを考えていた折り、

『あたしおかあさんだから』という曲の歌詞が

一寸した話題となっていたことを知りました。

 

それは、あるひとりのお母さんが

出産前を振り返ることに始まり、

我が子と過ごす中で次第に自分よりも子ども優先に

生きるようになった日々を、喜びとして綴るものです。

 

眠いまま朝5時に起きたり、

大好きなおかずをあげたり、

服装を変え、好きなことを諦め、

自分より我が子のことばかり、

と奮闘するお母さん。

 

その内容に共感を覚えるという方がいらっしゃる一方で、

「母親にばかり負担を強いているように感じられる」、

「子どもが聴いたときに心苦しくなってしまうのでは」等々、

苦言を呈する方も多くいらしたのだそうです。

 

拝見したご意見はどれも胸に迫るものがあり、

私は、どうも何事か考え込まずにはおれませんでした。

 

 

これは私自身の、以前の言葉の引用ですが、

私には、ひとつ、心のなかで決めた約束があります。

それは我が子に対して、

“生きることは幸せだと身をもって示す”というものです。

 

いつだって優しく誠実で在りたいけれど、

実のところ、それはとても難しいことです。

自分の力を信じたいけれど、思う通りにできないことや、

無力感から自分をいやになるときのあることも知っています。

あの子にも、そんなふうに心の塞ぐことがきっとある。

それでも、生きていることを幸せと感じられるように、

まずは私自身が、親として、人として、

自分の人生を心豊かに生きる姿を見せたいと思うのです。

 

生きることを辛いものとしてしまったら、

ではなぜ自分を生んだのかという疑問にも

繋がりかねないような気がします。

苦しいことも、悲しいこともあるけれど、

それでも、世界は美しいと伝えたい。

そこで一緒に生きていきたいと思えばこそ

生んだのだと感じてもらいたい。

 

突き詰めれば、それが親として果たすべき役割の

ほとんどすべてのようにすら思われるのです。

 

 

母親となった今こそ、なお一層、

自分の人生を生きるということが重要な意味を

成すことにも気が付きます。

 

自分自身で見て、聴いて、考え、惑い、

そうして初めて実感のこもった言葉や態度でもって、

我が子と向き合うことができるように思うからです。

 

私は、親と子であるまえに、

ひとりの人間対人間として、お互いを認め、

尊重し合えるようでありたいと願っています。

 

それは、けして対等なものを求めるとか、

何でもかんでも大人と同じに扱うということでなく、

生きていることの普遍的な尊さを分かち合いたいのです。

 

 

とは言え実際のところ、

「おかあさん」として過ごす日々は、

目眩のする程に慌ただしく流れていきます。

我が子の傍に寄り添うばかりでなく、

次から次へと押し寄せる「家の仕事」や「外の仕事」を、

荒波を掻いくぐるようにこなしていかなくてはなりません。

 

体調はもとより、心も次第に疲弊していきます。

そうして、自分へも、我が子へも、寛容でいられなくなることに

はたと気がついたときの哀しみは、とても言葉では言いようのないものです。

 

もしか、我が子と真摯に向き合いたいと思う分だけ無理を重ね、

かえって自分を苦しくしてしまうことだってあるのかもわかりません。

 

先述の『あたし おかあさんだから』という曲の歌詞を、

多くの方が受け入れ難く感じたことも、あるいは

こうした無理のある状況それ自体を、「母としての喜び」と

捉えているかのような言葉のためでないかと思われもします。

 

我が子と世界を見つめ、感動するという、

親として最も尊いことがままならない状況への切々とした思いが、

無意識のうちにもあらわれているのだという気がしてならないのです。

 

 

歌詞の中のお母さんは、あんまり健気で、

私にはいとおしくさえ感じられるのですが、

それでいてどこか胸の苦しいような思いもします。

特に、自分よりあなたのことばかりという考え方は、

結果そうなる場面が多々あったとしても、

何やらもどかしいものがあります。

 

余計なこととは承知のうえで、それでもあえて言葉にしたい。

子どもたちが尊いことと同じ理由で、お母さんたちだって尊いのです。

そしてまた、我が子に限らず、誰かを通して知る世界の素晴らしさを

嬉しく思えたなら、それはすでに自分のことと言えるのではないでしょうか。

 

私は、自分の大好きな苺を我が子が欲しがれば、

その喜ぶ顔見たさに幾らでもわけてあげたくなります。

けれども時には、こっそり内緒で

美味しいお菓子を食べたくなることもあります。

 

他に大切なものがあろうとなかろうと、

我が子のためにどれだけのことができようとできなかろうと、

子どもたちと、お母さんが、お互いの生きていることを

喜び合えるようであってほしいと願ってやみません。

 

 

 

それから最後にもうひとつ、つぶやきを。

 

誰かが自分のために伝えてくれた言葉が、

たとえ求めているものではなかったとしても、

その気持ちに感謝をしたいと思います。

 

そしてまた、誰かのしたことが、

本人や周囲の考えとは違う方へ向かい、

哀しむ人があったとしても、

それを許し合える社会であってほしいとも思います。

 

言葉や行いに、意図することとの差異が生じているのであれば、

それを丁寧に伝えていく姿勢はとても大切です。

 

愛しい子どもたちが生きていくこれからの日々にも、

そうした悩みや葛藤が、きっとあるから。

子どもたちと、かつて子どもだった大人たち皆が

お互いを労わり合える社会であってはじめて、

今はまだちいさい我が子が成長したときにも、

幸せに生きることができるのだと思うのです。

 

 

 

「あたし おかあさんだから」、自分を生きよう。

 

語弊を恐れずに、強いて言うならば、

私は母となったことで、より責任をもって

自分を生きようと思っています。 

 

 

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おとうさんといっしょ その3「おままごと」

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夫への接し方に、明らかな

変化が見られるようになったハル。

 

大好きなおままごとでも、

欠かせない存在です。

  

「ごはんを食べなしゃい」、

「お着替えをしてくだしゃい」等々、

一寸した母性と遊び心で、

甲斐甲斐しく面倒を見ています。

 

 

食事、着替え、お片づけ・・・。

ハルが夫へ何か言う度に、

“ハルもね!”と心の中でつぶやきながら、

ほのぼのと見守っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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